東京高等裁判所 昭和63年(う)400号 判決
1 本件遺留指紋が被告人の指紋として割り出された経緯をみると,証拠によれば,被告人は昭和54年2月15日に覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕され,その際押捺された被告人の左手拇指指紋が,昭和61年になって鑑識対照の結果,本件遺留指紋と一致すると判断されたことによるものと認められるところ,証人井上の証言及び同人作成の昭和61年6月9日付報告書等によると,本件遺留指紋は,はっきりした特徴点としては,当初は,指頭部分に4,5点しか指摘できず,渦状紋で左手拇指であり,成人の指紋であることが推定できるだけであったが,その後間もなく,採取指紋にオルトトリジンを塗布したところ左外角部(左標準角)がやや鮮明になり特徴点が4点ほど指摘でき,中心部の紋様も左咬合致であることが判明するに至った。
この遺留指紋をもとに,群馬県警鑑識課指紋係は同課保管の一指指紋票,十指指紋票との総対照を行い,昭和51年6月まで数次にわたり近県警察あるいは警視庁の各鑑識課へ出張して一指指紋票と対照を行った。また,警察庁に対しても照会をしたが,不鮮明なため手操り対照が不可能なので指し名照会用として保管するとの回答があったため,相当数の犯罪者を指名しての指し名による対照要求を行なった。しかし,当時は被告人の指紋は登録されておらず当然ながら容疑者の割り出しができなかった。その後,群馬県警鑑識課指紋係において遺留指紋の拡大写真を手元におき能力に応じ反復対照を励行し,また逮捕検挙者の出る都度対照していたが,そのうち日常の実務が多忙なためなおざりになってしまった。
しかし,太田方面で殺人事件が多発したので,本件をまず解決することが突破口であるとの考えから,透過光線撮影装置を使用して写真撮影してやや鮮明になった遺留指紋について,その特徴点の見直しや写真拡大のやりなおしを行い,あらゆる角度から検討した結果,ようやく昭和61年6月5日午前11時50分ころ,井上が被告人の指紋との合致を割り出したことが認められる。
2 前記井上は,前記の指紋対照にもとづいて同月11日付で,右上方の指頭側に2箇所,下方の左外角部等に10箇所の計12箇所の主な特徴点が符合し,相違点が認められない旨の遺留指紋対照結果報告書(甲12)を作成したが,これについては,添付した遺留指紋の拡大写真の下方左外角部が不鮮明であるとの検察官の指摘を受けたため,拡大写真を作成しなおし,また,特徴点を当初から指摘可能であった上方の指頭部方向に5箇所(特徴点1ないし4及び12)と,オルトトリジン塗布の結果やや鮮明になった下方の左外角部を考慮に入れ,7箇所(同5ないし11)の特徴点を指摘,対照した同年8月6日付の遺留指紋対照結果報告書(甲13)を作成した。そして,併せて,オルトトリジン塗布の遺留指紋の拡大写真についても指頭部側及び左外角に特徴点を指摘,対照した報告書(甲14)を作成したことが認められる。
3 本件遺留指紋に関しては,起訴後,原審において,早崎及び荒居の両鑑定人により更に指紋照合が行われたところ,早崎鑑定人は,井上が使用したと同じ遺留指紋の拡大写真(オルトトリジン処理をしないもの)について,この写真中央部より下方(井上のいう左外角部を含めた部分)では隆線が白線で現出しており,この部分には9点の特徴点が指摘でき,また,中央部より上方の指頭側は隆線は黒線で現出しているとして,ここに7点の特徴点が指摘できるとし,これら16点の特徴点は被告人の指紋と符合し,他に予盾した特徴点は存在せず,また,隆線の走行傾向及びその質的要素においても同一と認められ,本件遺留指紋は被告人の左手拇指指紋と一致すると結論を下している。同鑑定人は,指紋鑑定上は12の特徴点の位置及び形態が符合すれば同一指紋と決定できるが,本件遺留指紋が不鮮明のため,念を入れてそれ以上の符合する特徴点を抽出したことが認められる。
4 前記井上及び早崎の行った指紋照合にあっては,遺留指紋自体から前記のように明らかになった特徴点をとらえ,また,両指紋を対照して隆線の位置やその特徴及びその周囲の状況を検討して類似または一致しているとみられる部分をとらえた上,これらを対比,対照するとともに,矛盾する特徴点の有無を検討して同一性を判定しているところ,これは,実務上通常行われている,確立した手法であることが認められる。井上は,特徴点を12箇所,12点とらえて対照しているが,これだけの特徴点が合致すれば同じ指紋の出現する確率がほとんどないため,昭和54,5年ころから警察庁の指導があり,ために12点方式に従った結果にすぎず,前記手法をとれば,他にも特徴点を指摘することができることが認められる。
5 井上のした指紋照合では,オルトトリジン処理をしない遺留指紋の拡大写真では,隆線は全面的に白色に現出していると判断して対照しているのに対し,早崎鑑定にあっては,遺留指紋の上方は黒隆線,下方は白隆線であると判断して対照している。そして,後に触れるように,当審において行った遺留指紋の画像解析の結果によると,同指紋の上方は逆指紋になっており,隆線は黒で現出していると認められるので,全面的に白隆線であるとの前提でした井上の指紋照合には多少問題があるといえる。しかし,逆指紋を正指紋とみた場合でも,指紋中心部では別として,中心から離れた周辺部分では,開始点が分岐点としてとらえられることがあっても,異指紋とされるだけの矛盾があると判定されない限りは,その特徴点の対応関係にさほど消長をきたすものではなく,前記井上の指摘する指紋上方の2箇所あるいは5箇所の特徴点は中心から離れた部位に存するものであり,下方に存する10箇所あるいは7箇所の特徴点が対応すること及び全体として矛盾する特徴点のみられないこと等を総合して,同一性ありと推論したその手法及び判断は支持できるものである。
6 省略
7 早崎鑑定人の原審及び当審における証人尋問の内容及び当審において取り調べた透過光線を利用した指紋写真撮影に関する関係証拠に鑑みると,早崎鑑定人には荒居鑑定が指摘するように,遺留指紋の透過光線撮影装置を利用しての撮影方法に誤解があったことが認められる。しかしながら,早崎鑑定の趣旨は,遺留指紋の中央部より上方では隆線は黒色に,中央部より下方では隆線は白色に出現しているとして,被告人の指紋と対照すると双方の特徴点が符合するというものであるところ,当審での,鑑定人安居院による遺留指紋のコンピュータ画像解析ならびに鑑定人長谷川の鑑定及び証言によると,遺留指紋の中心部より上方では黒色線の中に汗腺口とみられる白点があるので,この部分では指紋の隆線は黒色で出現しているつまり逆指紋と認められ,中心部より下方では,白色線の中に汗腺口とみられる黒点があるところから,指紋の隆線は白色で現れていることが確かめられ,結局,早崎鑑定人の見方の正しさを裏づけていることが認められる。すなわち,現場に遺留された指紋を採取するには,アルミニウム粉末を塗布し,これをゼラチン膜に写し取って行われるが,普通,指紋隆線には汗腺口があり分泌物を出しているためアルミ粉末は隆線に着くが(正指紋),指紋押捺の状態や粉末付着力の強弱により,全部あるいは部分的に隆線の溝部分に付着してゼラチンに転写される(逆指紋)ことがあり,したがって,指紋照合の場合は,こういった点を考慮に入れつつ行う必要があり,早崎鑑定はこの点を十分配慮して鑑定したことが認められ,その結論には十分の信用性があるものと認められる。
8 ところで,荒居鑑定人は,遺留指紋上にA,B,C,Dの各特徴点は,被告人指紋のa,b,c,d(早崎鑑定の被告人指紋上の11,12,13,14)の特徴点と対比せざるをえないが介在する隆線の数に違いがある旨伝々する。しかし,遺留指紋の上方にあるこの4つの部分は,前述のように逆指紋(黒隆線)であるが,荒居鑑定人は正指紋(白隆線)という前提で対比させた上,符合していないというのであって,むしろ,逆指紋であることを考慮し,その位置及び形態を勘案すると,同鑑定人のいう遺留指紋上のA,B,C,Dは,早崎鑑定の指摘する11,12,13,14の各特徴点と同じものを指すことに帰着するとみられる。そして,それは,被告人指紋上のa,b,c,dすなわち早崎鑑定の11,12,13,14の各点と対比すれば,相互に符合一致することとなるので,はさむ隆線の数に相違はない。また,荒居鑑定人の,矛盾する特徴点としてあげるE点は,遺留指紋の中央部に位置するが,前記安居院鑑定人の行ったコンピュータを使っての画像解析によると,この部分は遺留指紋自体不鮮明で特徴点を指摘することは不可能であることが認められることは長谷川鑑定人のいうとおりである。また,F点は,当審における早崎及び長谷川両鑑定人の証人尋問の結果に徴するとむしろしわとみられるもので特徴点とみるにはかなりの疑問があり,G点については,この指紋上部あたりは逆指紋部分であるのに,荒居鑑定人はそれを配慮していない点問題があるが,逆指紋部分であることを考慮すると早崎鑑定の特徴点10(右上向き隆線の開始点)と同じ特徴点を指摘することになると認められる。更に,荒居鑑定のいう被告人の指紋上のh点は遺留指紋上の早崎鑑定10に符合するとみられ,結局,荒居鑑定の指摘と異なり,両指紋間には予盾する特徴点や配置が存在しないといわざるをえない。また,荒居鑑定の指摘する渦状紋中心部紋様の様相の差異については,遺留指紋ではこの部分は特に不鮮明なのであって,比較できるとは到底認められないことは,当審での早崎証人の述べるとおりである。結局,荒居鑑定の同一指紋でないとした結論はとても採用に値するものではないし,また,荒居鑑定人の早崎鑑定に対する批判は当をえたものとはいえない。
9 なお,当審において鑑定を命ぜられた富田他1名は,コンピュータを使用して遺留指紋と被告人の左手拇指指紋とを重ね合わせるという手法で鑑定を行った結果,指紋の左下方の三角州付近は完全に一致するが,上方の指頭部においては,隆線群の流れが本件潜在指紋の方はやや右上方向に斜走するのに対し,被告人指紋の方は横走し,両者の間に隆線間の幅の2倍ほどのずれが生じて完全には重なり合わなかったことから,特段の前提条件のない限り本件遺留指紋は被告人の指紋と同一ではないと結論する。
しかしながら,指頭は柔らかいゴム球の表面のようなものであり,犯罪現場に残された指紋にあっては指頭の力の入れ具合や触れた角度によりゆがみを生ずるものであって,前記の鑑定手法では,同一条件,同一態様でゆがみの生じないように極めて注意深く押捺された指紋同士を照合しないかぎり完全に重なり合うことはないと考えられ,犯罪現場に残された本件遺留指紋の同一性を判定する方法としては適切なものとはいえない。むしろ,この鑑定において行われた実験結果を子細に検討すれば,一部の隆線群は完全に一致し(同鑑定書図19のD部分),他の一部はその流れに「やや斜走」と「横走」との差異はあるものの紋様の態様及び傾向は似ていることが認められるのであるから,同一指紋とまでの結論は出せないとしても,両指紋は極めて酷似しているとの結論を導くことも十分可能であると思料され,前記鑑定の結論は説得力を欠き採用できないというべきである。
10 そして,当審における鑑定人長谷川は,前記鑑定人安居院による遺留指紋のコンピュータ画像解析結果をも併せ参照して指紋照合を行い,下方に7点(遺留指紋写真では隆線は白),上方に5点(同じく隆線は黒)の特徴点を指摘して照合した結果,遺留指紋と被告人の指紋は符合し,同一であると結論している。この内容は,同人の証人調べの結果を併せてみても極めて合理的で妥当なものであることが認められる。なお,前記鑑定は,前記早崎鑑定の拾う特徴点16点のうち9点をとり上げており,また,とらなかった他の特徴点についてもその存在を否定しておらず,早崎鑑定の手法及びその結論が正しいことを論証していることが認められる。
以上,みたところによると,原判決が,本件犯行現場において発見された遺留指紋は被告人のものであるとし,被告人と本件犯行とを結び付ける有力な証憑事実とした判断には誤認はなく,弁護人がるる論難するところは理由がない。